70周年目を迎える市民権の歴史

Terrorism strips citizenship

Source: Wikimedia Commons

イギリスからの事実上の独立から118年以上が経つオーストラリアですが、市民権の歴史はずっと新しいものとなります。今日は、70年目を迎える市民権の歴史を紐解きます。 (2019年1月17日の放送がお休みの為、カレントアフェーアーズはポッドキャストでお届けします。)


イギリス議会が6つからなる殖民地区を自治領とみなす法案が通過し、1901年の1月1日、オーストラリアは正式にに独立国となりました。しかし、それから2つの世界大戦と大恐慌を経験したほぼ50年以降の1949年の1月26日に、オーストラリアに住む人達が正式にオーストラリア国民となりました。

初めて市民権を取得したのはチェコスロバキア、スペイン、デンマーク、ギリシャ、フランス、ユーゴスラビアそしてのルウエーからの男性達7名でした。

1949年の2月3日の授与式では当時のベン・チフリ首相の前で7人の男性達がそれぞれの国籍を放棄し、新しくオーストラリア市民となることを誓いました。

ノルウエーのジール・マーストランドさんはその7人の内の1人で、1949年のニュースに取り上げられていました。



「私、ジール・マーストランドは、忠実で真の忠誠をイギリス王ジョージ6世陛下へ誓い、オーストラリアの法律に従い、オーストラリア国民としての義務を全うすることを、全能なる神に誓います。」



連邦議会がオーストラリア市民権法を1948年の12月21日に承認しました。

この法律には詳しくこうあります。「オーストラリア市民権は一般的な絆であり、互恵的な権利と義務を含みます。そして全てのオーストラリア人を結束させ、多様性を尊重します。」

1949年以前は、オーストラリアに住む人たちは、オーストラリア国民というよりは、合法的にイギリス帝国の統治を受ける「もの」と捉えられていました。

メルボルン大学のブライアン・ゲリガン名誉教授は1949年の変更は単に市民権を合法化したものだと言います。

「帰化法などの様な正式な法律には、基本的にはオーストラリアの国民になるという意味なのですが、女王の市民となるとあり、もちろんオーストラリアはイギリス帝国の連邦国家であったわけで、1901年にオーストラリア連邦が成立した時からオーストラリア人は市民権を持ったと言えるのですが、実際は1949年にそれをより正式に法的な名称にしたと言えます。」

ゲリガン教授は、第二次世界大戦後のイギリス帝国に対する幻滅感そして、国家としての統一感を強く持つ必要性から正式な市民権を目指す動きが起きたと述べます。

「オーストラリア人達がビクトリア州の住民だとかタスマニア州の住民だとか、ニューサウスウエールズの住民だということより、オーストラリア人であるということをより感じる様になりました。そしてこれは、ちょっと遅まきながらと言われるかもしれませんが、やっとオーストラリア国民だということを正式に認識する様になり、それがこの市民権法に反映されているのです。」

世界大戦と大恐慌中には移民の数はあまり多くありませんでしたが、1940年代後半には新たな移民が殺到しました。

ゲリガン教授は、この移民達は新しい国への忠誠心を確約する方法として元々の国籍を放棄しなければならなかったといいます。

「この考えは某国の国民であれば、その国への真の忠誠心を持つべきだと言う観点から来ています。そして他の国の国民でもあった場合はその忠誠心が分裂してしまうということで、それが、当時の人々とって真新しい考えでした。戦争が起きて、国の為に戦わなければならない時に敵国の国民でもあった場合、それは問題となるでしょう、そしてそれぞれの国に対して2つの忠誠心が必要となるわけですから、人口の何割かが信頼出来なくなるなどの理由があったのです。」

ノルウエーから移住したジール・マーストランドさんは1949年に初めて市民権を獲得した人たちの1人です。

戦犯として収容されていたシンガポールのチャンギ収容所から出て、1948年にオーストラリアに移住しました。

マーストランドさんは、ノルウエーに戻ってすぐ、タスマニアの合板製造工場を経営する仕事のオファーを受け、オーストラリアへ家族で移住しました。

マーストランドさんはタスマニアで亡くなりました。享年86歳でした。

タスマニアに住んでいる娘のヴァル・バスビーさんは、チャンギ収容所での記憶やノルウエーの過酷な気候から逃れることが出来、オーストラリアは父親に人生の新たなスタートを与えてくれたと述べます。

「父は戦後げっそりやつれてしまって、ノルウエーがとても寒いと感じていました、マレーシアでしていた合板工場を経営する仕事と同じ合板工場経営のオファーをもらいました。父はそれを受け入れ、私達はタスマニアに来ました。そこはウィンヤードからそんなに離れてなくて、車で5分ほどのところにあります。」

バスビーさんは、父親はチャンギ収容所での話はほとんどしなかったと言います。代わりにそれは記憶にとどめるだけにしていたと言います。

バスビーさんは逆にオーストラリアをどんなに愛しているかということを話していたと言います。

「目指していたオーストラリア国民になれてとても誇らしく思っていました。そして父はいつもとってもオーストラリア人でした。母国を愛してはいましたが、オーストラリアへの愛は大きく、ここに居ることを愛していました。そしていつも色々な事に感謝していました。すばらしい国ですよね。」

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